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うすいピンクの壁の向こう側

薫 エリー

内容第1話  うすいピンクの壁の向こう側


 愛する。
 ひと口にこういってもその形も表現の仕方も人それぞれ。しかし内奥、本質的なものは秘めたるものだというその性質上、意外とアブノーマルだったり、いい加減だったり、お粗末だったりするもの。
 ピンク。
 ぼくはコンドームのことをこう呼ぶ。いや、ぼくだけじゃない。かつての彼女もそうだった。そしてこのピンクを愛の好意の際、かならず装着することが当然の義務だと思って疑わなかった。もちろんいまでもそう信じて疑わない。ただ、いろいろと誘惑はある。このピンクを使うか使わないかというのではなく、まさに女性からの誘いが多いという意味でだ。こんなぼくでも、たぶんぼくでなくても、いまの職場にいればそれなりにモテルだろう。
 外資系高級ホテルの客室清掃員。そのほとんどがパートかアルバイト。しかも男はぼくと課長だけ。なにもないはずがない。なにも起きないほうがおかしい。そう。ぼくの身にも起きた。しかし今回のはある意味ちょっと性質がわるい。というかしつこい。
 美大生の真崎さん。その見た目も言動も芸術を志すもの特有のちょっと風変わり。けれども、こと恋愛となるとそういうわけではなさそう。なんというか、これが案外オクテ。そのおかげでぼくはいま四苦八苦している。身も心もクタクタだ。それなのにまだ頑張れという。ぼくはいまでもモトカノのことが忘れられないし、まだ未練たらたらだと知ってるくせに。
 とはいえ、終わってしばらくすると、あの夜そんなこともあったのかと遠い昔のことのように思えてならない。そんなある日届いた一枚の手紙。真崎さんからだ。そこには小躍りしたくなるような驚くべき真実の数々が克明に綴られていた。いままで思い悩んでいた日々が一気に吹っ飛んだような気分。なぜならぼくはまだ愛されていたから。モトカノに。
 すぐにでもモトカノに会いに行こうと思った。しかし真崎さんがいなかったら、このことは一生ぼくの耳に入らなかったはず。そう思い直すと、まずは真崎さんにこの礼をいいに行くことにした。向かった先は草津温泉。ぼくが学生の頃にアルバイトした懐かしい場所。そこで旅館のほかに饅頭売りもやっていた。充実しているとともに一瞬の生に身を投じていた、そんな時代。
 ほら、その売り子の威勢のいい声が聞こえてきた。


第2話  オールドタイマー


これは私の遺書である。
 また決意であり、告白でもある。したがってこれが後々、私がこれから犯そうとしている罪を裏付ける証拠ともなりえるし、その結果、法の下において厳正に処罰されることも予想される。しかしその頃には、おそらく私はもうこの世の人間ではないだろう。

混雑した車内だった。これがいつものことなのか、それともたまたまそうなのか、私にはわからない。なぜなら電車自体あまり乗らないからだ。ましてやこんな夜遅い電車に乗ることはまずない。今日はたまたま妻の千葉の実家のほうにひさしぶりに顔を見せに行ったその帰りだ。勝浦のとある小さな漁師町で暮らす、私の妻の兄が、ちょっと遠いですが将棋でも指しに来ませんかと誘ってくれたのだ。今回も三局で、前回同様またしても一勝二敗で私の負けだった。それから夕飯をご馳走になった。これからお帰りになるのは大変でしょう、もしよろしければお泊まりになりませんか、と義姉はいってくれたが、枕が変わると眠れませんのでと私は辞退した。そもそも彼と将棋を指し、酒を酌み交わすまでの関係になったのは、ここ何年だ。それまでは口をきくことはおろか会うことさえできなかった。もう今では笑い話であり、ずいぶん昔の話になるが、その当時は妻との結婚を猛反対され、式にも来てはもらえなかった。
時刻は午後九時を過ぎようとしていた。ここまで千葉を経ってからすでに二時間が経過し、そのうえ乗り換え時の駅構内での混雑と山手線で鮨詰めにされたために、私はもうくたくただった。最後に渋谷始発の電車に乗ったわけだが、あらためて人の多さに辟易した。しかも梅雨時だ。老若男女が発散する口臭、体臭、腋臭、生理臭、足の臭い、それにパーマ液や整髪料、酒、ニンニクなどの臭いと、それをなんとか抑え誤魔化そうとする無数の香水やデオドラントの匂いが、激しく鬩ぎ合い、絡み合い、ごっちゃになった体の熱を伴った異臭は、息苦しさばかりか吐き気まで催させる。とりあえずクーラーが効いているようだが、それらの拡散を促進させるだけの道具でしかなかった。私は素潜りの漁師にでもなった気分で、電車が移動している間はなるべく息をしないように心掛け、駅に着きドアが開くたびに、車内に流れ込んでくる湿気てはいるが新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、また次にドアが開くまではなるべく息をしないようにすることを繰り返した……。


第3話  血の贖い


はやくに結婚した。
 その相手、妻とは、合コンで知り合った。すぐに意気投合して連絡先を交換し、その翌日には会って交際をスタートさせた。そのとき、私は大学生、妻は短大生で、同い年だった。
毎日のようにデートした。公園を散歩したり、ウインドーショッピングを楽しんだりといたって平凡で安上がりのものだったが、とにかくよく喋った。そんなに会話することなんてあるのというくらい、それこそありとあらゆることを飽きもせずに。コーヒー一杯で半日近くも粘ったことも一度や二度じゃない。もっとも、ときには奮発して、レンタカーで海へ山へドライブもした。楽しかった。贅沢こそできなかったが、私は満たされていた。そして、卒業して間もなく一緒になった。
 未来像、または将来展望のようなものもあった。郊外に、庭付きの一戸建てを購入する。車は大勢が乗れるバンタイプ。なぜなら、子供はたくさんほしかったから。そして、たまにはレストランで食事をし、できれば年に一度は家族そろって旅行する。そのために、私たちはともに一生懸命働いた。
 妻は会計事務所に勤めていた。元々、計算が好きというだけあって、趣味と実益の区別なく、その分野に関する資格もいろいろと持っていた。また、その持ち前の明るさと社交性からだろう。経理の仕事だけでなく、知り合いなどを通じて幅広い人脈と信頼を築き、年に数件の顧問契約もまとめていうから大したものだ。
 そのいっぽうで、妻は家事もおそろかにはしなかった。炊事、洗濯、掃除はもちろんのこと、毎日お弁当も作ってくれたし、ワイシャツにはちゃんと糊が利いていたし、夕食はいつも残業で帰りが遅い私を待っていてくれた。妻の鏡。理想の奥さんといっても過言ではなかった。そんな妻を、私は心から愛していた。また、そこにはちゃんとして生活の営みがあり、人並みの幸せがあった……。

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